豊かな自然に恵まれた六ヶ所村。

延々と広がる田畑と牧草地。

夜の海に浮かぶイカ釣り船のいさり火。

海岸に流れ着く昆布を拾い集めるじっちゃんやばっちゃん。


一見のどかに見える六ヶ所村の人々の生活は、

厳しい冬と一年中吹き付ける「やませ」という海から吹く強風との

共存を強いられる厳しいものでもある。

寒い気候に適した長いもやにんにくが栽培され、

吹き止むことを知らないやませを利用して風車が建てられた。


与えられた環境をうまく利用する人々の知恵である。


村民が隣り合わせに生きるのは 豊かで厳しい自然だけではない。

人間の手によって持ち込まれた 六ヶ所村の風景からは切っても切り離せないもの。


それは 六ヶ所村上空で飛行演習をする三沢基地 米軍機の爆音。

あるいは  日本の石油消費量7日分を貯蓄するという巨大な石油タンクの並ぶ石油備蓄基地。


そして 日本中の原発から出る使用済み燃料を再処理するという再処理工場。


六ヶ所村に「むつ小川原開発」という国家巨大プロジェクト構想が

持ち上がったのは1969年のことだった。

それは石油精製、石油化学などの基盤産業の立地を謳うものだった。

企業がこぞって投資をはじめ、開発公社がいっせいに土地の買占めに走った。


戦後サハリンから引き揚げ、他に行く土地がなく この土地を開拓して住みついた

人々も少なくない。ゼロから始めた酪農、農業は初めからうまくいかず

借金を抱えていた人も多かった。

そんな時に持ち上がった「むつ小川原開発」。土地値が2倍3倍に跳ね上がった。

開発に対する反対運動が強かったために 開発計画は縮小したものの

多くの村民達が土地を手放した。


1970年代 状況は一変する。夢の開発だったはずのこの計画は

2回のオイルショックによって急速にしぼむ。参入してくるはずだった企業が来ない。

建てられたのは石油備蓄基地のみ。買い占められた土地は荒地として今でも

その多くが残っている。


1985年、こんな出来事を背景に六ヶ所村に持ち上がったのが「核燃サイクル施設」の立地

だった。借金で窮地に追い込まれた「むつ小川原開発」の救済手段という側面も大きかった。



核?ウラン濃縮?放射能?

得たいの知れない恐ろしいものが六ヶ所村に建てられようとしている。

翌年の1986年 チェルノブイリ原発事故により大量の放射能が大地や空気を汚染する。

恐怖と不安に駆られた村人達の核燃サイクル反対運動は盛り上がりをみせた。


しかし建設が進むにつれ反対の声を上げる者は減り やがて反対運動を続ける村人は数名となった。


今では核燃サイクル施設は村の大きな収入源。仕事も増え 経済効果も生んだ。

施設は六ヶ所村にはなくてはならない存在になる。

そしてまた 六ヶ所村も国のエネルギー政策には欠かせない存在になる。



巨大な再処理工場と隣り合わせに住む人々。

今、再処理工場の本格稼動を目の前に 着々と進んでゆくこの国家プロジェクトを

六ヶ所村の人々はどのように見つめているか。


この続きは映画で。。。



河合樹香(7月19日)