皆さん、詩人アーサー・ビナードさんをご紹介します。私がこの詩人を知ったのは朝日新聞の夕刊に毎木曜日に連載されていたコラム、「日々の非常口」からでした。日本人よりも鋭い日本語への感性、社会を切り取るその視点のユニークさ、そしてユーモアにすっかりファンになりました。そのアーサー・ビナードさん、最近はこんな本を出されました。


第五福竜丸

これは1954年、53年前に起きた第五福竜丸事件を絵本にしたものです。ベン・シャーンという

天才的な画家を絵を描き、文章をアーサーさんが担当しています。素晴らしい本です。

「六ヶ所村ラプソディー」の評は


絵手紙
この雑誌に書いていただきました。ご本人の許可を得て引用します。

遠くて近きは放射能汚染

国籍や人種、職種、宗教、学歴などで人間を振り分けることは、ぼくの体質に合わない。

「日本人だから・・・」「アメリカ人というのは・・・」と十把一絡げに言っても、実際はみな違っていて、せっかくのその多様性を言葉が消し去ってしまう。例えば好きな女性のタイプは?」と聞かれると、何と答えたらよいか分らず、タイプじゃなくて、ぼくが好きなのは個人だ、と思うのだ。分類を拒むバラエティーに富んだ個性的な個人。

「嫌いなタイプ」も、別に決まっていない。ただ強いていえば苦手な類は一つ、あるにはある。何か長期にわたるような問題について話し合っているとき、「そうなったころにはどうせこっちは生きていないし・・・」とか「もう年だから、俺たちには関係ないけどな・・」とか言える人だ。地球温暖化、それに伴う異常気象、海面上昇、あるいは放射能汚染が話題にのぼると、だいたい誰かがそんなセリフを吐く。

 この地球に生まれ、「年だから」とのたまえるほど生き長らえておいて、その間に自分が自然環境からどれほどの恩恵をこうむってきたのか、まったく分っていないわけだ。いい年をして、「立つ鳥跡を濁さず」という日本語も知らないのか。濁しっぱなしであの世へ飛び立って、あと野となれ産業廃棄物の山となれーどうせそれだったら、今からさっさと飛び立ってくれ!なんて、ときには怒鳴りたくなってしまう。

ドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディー」の中でもぼくの苦手な類の人はちょい役で登場する。青森市内の路上で監督が、通りかかった男性に、六ヶ所村核燃再処理施設から出る放射能をどう思うか、と尋ねる。すると男性は、自分はもう「年だからいい」と返す。

青森県下北半島の付け根に、二兆一千九百億円の工事費が使われて建てられた施設では、原子力発電所から出る核燃料のゴミを、再処理しようとしている。燃え残ったウランと、

生成したプロトニウムを取り出して、いずれそれを燃料にしようという計画だ。ところが、

その工程で大量の放射能が発生する。高さ百五十メーターの煙突から、放射能ガスと蒸気が大気中に放出され、放射能たっぷりの排水と廃液は海に流される。原子力発電所が通常、一年の間に出す放射能汚染を、六ヶ所の再処理工場はたったの一日で出す。その一年間の

排気と排水に含まれる放射能は、ざっと5万二千人分の致死量に相当するのだ。

 再処理工場を雇用先として歓迎する住民と、反対を続けている住民と、工場でうるおってきた建設会社の社長と、風下で畑仕事をせざるをえない農家の人々とー「六ヶ所村ラプソディー」はさまざまな立場の人間に耳を傾け、その素顔をとらえている。みているうちに村の土の匂い、青森の季節の移り変わりと歴史の流れが、静かに迫ってくる。

 そこで気づく。国民の大部分が無関心でいられるのは「どこにあるか分らない、どうせ行くこともないし」、つまり「遠いから関係ない」と思い込んでいるからではないか。「もう年だからいい」とごまかすには、まだ年齢的に早い人間は、距離でごまかしているのだ。

原発が一年で出す放射能を毎日放出する施設が、東京近郊にもし、できたなら・・・。

 しかし、本当に青森は遠いのか。日本のリンゴの半分以上が青森産で、ヤマイモも四割近くがそうだ。ニンニクときたら八割以上が青森からやってくる。再処理工場の排水と廃液がどんどん流されていく三陸沿岸は、ウニやアワビがたくさん獲れるところで、さらに全国のワカメの七割も産している。日常的に青森は、みなの食卓に直結している。

 そしてまた電気を点けるたびに、遠い六ヶ所村とつながる。再処理工場を稼動させているのは、ぼくらだ。」


アーサーさん素晴らしい評をありがとうございました。


kama